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2011/06/27(Mon)
 クリシュナムルティの言葉は思想ですらない。
 
哲学ですらない。
 
宗教でもない。
 
彼は思考するという宿命にある自我というものを脇に置いておくことができる稀有な人物だ。
 
彼によると(私には分からないが)、
 
自分の心を観察していると(それは「非難も正当化もせずに」だ)、
 
思考と思考の間に「空」があるのが分かってくると言う。
 
そして、その「空」こそが、別の言葉で言えば「無我」あるいは「無」こそが真実であるらしい。
 
 
一言で言えば、我々の思考つまり自我は堂々巡りをしているだけであり、
 
常に何かにとらわれ不自由である。
 
クリシュナムルティにとっては、その空こそが自由である。
 
つまり彼が「自我は我々の問題を解決できない」と言うとき、
 
それはつまり、自我は本質的に不自由であるから、
 
本質的に何も問題を解決できないのだ、と言っているのである。
 
それはもちろん、彼の思考の結果ではなく自由である「空」の洞察であろうと思う。
 
彼は言う「我々が自由を発見するためには、まずはじめに自由でなければならない」
 
繰り返しになるが、こういったことは理論ではなく彼の洞察であろうと思う。
 
 
 
「思考はわれわれの問題を解決できるだろうか」-J.krishunamuruti
 
 
 
 
2011/06/27(Mon)
 自由とは選り好みをしないということだ。

好き嫌いを言わないということだ。


逆説的だが、よく考えるとそういうことになる。


つまり、選り好みあるいは好き嫌いを言って「選んでいる」ひとは


自身の欲望に束縛されているということだ。


ものごとに優劣をつけたり好き嫌いを言うのは実に安直なことだが、


真の自由とは相対的価値観からの自由であり、


選り好みをせずにに超然としているということだ。


つまりそれこそが、J.クリシュナムルティの言う「無選択の気づき」であろう。


「相対的価値観」とは、


これは良いあれは悪いとか、


こちらの方があちらより優れている、


あるいは、われわれが正義であちらが悪だというような、


比較に基づく視野の狭いものである。


自我にとって、思考にとって、


比較しないことは極めて難しい。


と言うより、


比較することが自我の本質的な性質である。


そして、


なんでも比較してより良いものに対する欲望が生まれるというわけだ。


「思考はわれわれの問題を解決することができるだろうか」と、


クリシュナムルティは洞察する。


そして比較することがやんだ時、


われわれは、はじめから自由であったことに気づくのかもしれない。

 
2011/06/27(Mon)
 「お前には貸しがあるからな」彼は唐突にそう言った。

私には何のことだか分らなかった。

彼は常々言っていた。「人はカネでしか動かない」


しかし私自身は、決してカネでは動かない人を何人も知っている。

つまり「無償の愛」と言うべきものだ。

たとえば今回の震災の被災で無償で動いている人々はたくさんいる。


そして「人はカネでしか動かない」と言っている彼にとっては、

愛さえもカネで買えるというわけだ。

愛すらも損得勘定というわけだ。

彼は無償の愛というものを知らない。

要するに愛は無償であることを知っているかの問題だ。






自分にとって何が得で何が損かを計算しながら生きている人は愛を知らない不幸な人だ。




よく「あの時の恩返しだ」と言う人がいる。

それはたとえば「義理」という言葉で言い表される。

しかしそれは、真の意味での愛ではない。

愛は何の見返りも期待もしないし、また求めない。


何をきれいごとを言っているんだ、という方も多いかも知れない。

くりかえしになるが、そういう人は愛を知らないのだ。

愛は何の計算もしない。

損得勘定もしない。

そういうものだ。


ただ分かち合う。

それが愛というものではないだろうか。


愛する人は何の計算もしない。

損も得も義理すらも考えない。

それが愛というものではないだろうか。





計算ずくで生きている人は愛を知らない人だ。
2011/06/27(Mon)
 そして彼はいつもこう言っていた。
 
 
「愛とは赦すこと」
 
「赦すとは忘れること」
 
 
 
 
それが彼の口癖だった。
 
 
 
 
あれから15年以上経った今なら、
 
私は彼の言葉を素直に聴けたかもしれない。
 
 
 
あれから彼がどこへ行ったか、私は知らない。
 
 
 
 

 
 
 
2011/06/27(Mon)
 別に格好をつける気はないのですが、

私は昔から変わっている人間だ。

自他ともに認めるところだ。

たとえば私は、

いわゆる成功というものに興味がない。

「おもちゃ」は買いたがるしいろいろ持っているが、

お金は欲しくはない。

特にお金を貯めたがる人の気が知れない。

お金というものは遣わなければ意味がないとは思うが必要以上に、

つまり貯めるために欲しいとは思わない。

別に悟っているわけではない。

人並み以上の馬鹿ものであると「自負」している。



そう。

私は自分が変わっている人間であることを自負している、世間並みに言えば馬鹿である。



自分で言っていれば世話はないだろう。
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